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<フライヤー表紙>

西川信廣

大地真央、上條恒彦、浦井健治、石井一孝、羽場裕一、月丘夢路 他
.東京公演 2005/11/04〜28
..東京公演[帝国劇場] 2005/11/8

1912年のロンドン。花売り娘のイライザ・ドゥーリトル(大地真央)はフレディ(浦井健治)とぶつかり、売り物の花を台無しにされてしまう。彼を怒鳴りつけるその言葉は訛りがきつく、聞くに耐えないものであった。代わりに花を売りつけらそうになったピッカリング大佐(羽場裕一)とイライザの一悶着を一部始終物陰でメモをする男がいた。言語学者のヘンリー・ヒギンズ(石井一孝)である。ヒギンズは言葉(方言やイントネーション)を聞くだけで、出身地から学歴までぴたりと当てる優れた学者であり「ちゃんとした英語を話せない事が身分を決めてしまう」と断言した。つまり、訛りのきついイライザはいつまでたっても花売り娘のままであるが、ちゃんとした英語を話せるようになれば花屋の店員にもなれると言うのだ。ピッカリング大佐も言語学の権威であったためヒギンズと意気投合し、イライザを残しヒギンズ邸に向かう。
翌日、ヒギンズ邸にイライザが押し掛ける。「月謝を払うのでもっと上品な言葉を教えてほしい」と言うのだ。最初は取り合わなかったヒギンズだが、ふとしたアイデアが浮かび、ピッカリングと賭けをすることになる。
それは半年後、大使館の舞踏会にイライザを出し、誰もが彼女を貴婦人として扱ったら勝ち。というものだ。イライザはヒギンズ邸に引き取られることになるのだが、そこで彼女を待ち受けていた事とは・・・。

『マイ・フェア〜』が日本の舞台で公演されるようになったのは1963年・昭和38年に遡る。そして元の映画は、日本でも人気のあるオードリー・ヘップバーン主演。競馬場でヘップバーンが着た大きな真っ白の帽子に白いタイトなドレス、挿入歌の「運が向いてきたぞ」や「君住む街で」は誰もが一度は観たり耳にした事があると思う。
私は元の映画を字幕を頼りに観たのだけれど、今回このお芝居を観て"映画でヘップバーンの声を聞きながら読んだ字幕は、ちょっぴり「文字」だったんだなぁ〜"と、大地真央演じるイライザを観てひどく痛感した。
でも「日本語だったから分ったんだろう」というニュアンスともひと味違った印象が拭えない。大地真央のイライザはヘップバーンのイメージも崩していないけれど「コピーat日本語版」では決して無かったから。映画の脚本と立ち振舞いは同じであっても、「イライザ」を演じる為に、大地真央が台本の行間から本当の「イライザ」の姿を読み取って随所にソレらを表現し、ソレが無理に演じている感も無く、舞台上でイライザそのものが「生きて」いたからなンだと思う。
イライザを「自分のモノ」にしていたんでしょうな〜。「イライザ」が「イライザ」になるのは、大地真央以外思いつかない。彼女は日本で公演されたお芝居では6代目のイライザ。演じ始めてから今年で15周年とゆうのも納得ができる。自分の持ち味を活かして過去の大作を長年演じる事ができるって凄い事だ。伸び伸びとした歌声も音域が広くとても自然で、底力というか、天性の才能というか、実力を「これでもかぁぁぁ!!」と見せつけられてきました(笑)
もし、ヘップバーンと大地真央の「イライザ」の同じ事は何処かと聞かれたら、小さい顔・白い肌・長い首・細い腰といった「目に見えるスタイル」だ。映画でヘップバーンが大使館の舞踏会で着た、レースを使用したタイトな真っ白いドレス・首に輝く広いチョーカーは、大地真央も芝居中に着用し、ヒギンズ(石井)が目を奪われたように、私も見とれてしまった。大地真央の実年齢を考えると・・・バカ恐ろしい(笑)
もちろん脇を固める俳優陣もゴージャスで、父親のドゥーリトル役・上條恒彦は、森繁久弥が「屋根の上のヴァイオリン弾き」を降番する際に、自分の代わりにと名指した程の人。その芝居の落ち着きというかどっしり感は自然にこちらに伝わってくるもので、ドゥーリトルがついに観念して結婚を受け入れ、教会に向かう日の酒場の飲めや歌えやドンチャン騒ぎのシーンでは、感激の余り泣きましたよ。マジで(笑) ホントに、声が素敵で歌も上手いし、役に入ってるし、間も知ってるし、、、虜です(笑)
どっしり感と言えば、トランシルバニア女王役・月丘夢路。キャスティングを見ないで鑑賞していたので、舞踏会のシーンで登場された時のあの重厚たる空気に「ただ者ではない。何者かぁーー?!」と食い入るように見つめ、気品アル貫禄を体験してきた。
ヒギンズ役の石井一孝とピッカリング役の羽場裕一は今回初出演。「石井さんってヒギンズにはちょっと若いかな〜?」と思っていたけれど、素直でない所とか、人を見下したような所とか、マザコンちっくな所とか(笑)、最初思っていたよりは適役だった。もっと年齢を重ねて行くと、どんどんヒギンズになっていくと思われる。ピッカリングはどうしても「ぽっかぽかのおしり」のお父さんなイメージが強いんだけど、イライザを優しく包み込む包容力や暖かな人柄は表情を観ているだけで一目瞭然。お歌が少ないのが残念。

芝居は一ケ所の箱を何個もの場所になるように展開していくが、その場面のセットも、次の場面に移る時の展開も暗転を上手く利用してとてもリズミカル。競馬場のシーンも柵の出し方や構図(立ち位置とか)に工夫がされていて、こういった演出の素晴らしさも芝居の出来を左右する。「基本の骨組み1つがココ迄表情を変えるとは・・・。」であった。

ついでに、何処かで見たお顔が2つ、ありましたとさ。びっくりした。



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